国鉄日中線
その3
自転車歩行者専用道から、自動車も通れる道へと変わり、・・・
【7】田園風景
日中線の廃線跡を整備した自転車歩行者専用道は、喜多方駅付近から延々約3kmで、3本の車止め支柱によって自らの終焉を告げた。
しかし、自動車も通れる舗装道路として、廃線跡はなおも続いている。
並木がなくなり、見晴らしは改善されたが、代わって6月の日差しが容赦なく照りつける。
向かって右側の路肩が異常に広く取られているのは、歩行者や自転車への配慮なのだろうか?
これまでの「人によって植えられた木」は、「自然発生的に生えた木々」に様変わりしている。
この緩やかな曲線美が、いかにも鉄道廃線跡らしい。
こんなに広い道路なのに、車も自転車も歩く人もほとんどいない。
上の写真に写る十字路を過ぎたら、白線が消えて道幅が狭くなった。
さらに...
舗装は、道の左手にある工場にのみ続いていた。
(つまり、廃線跡の舗装は工場の入り口で切れた)
工場の敷地の中に、貨車が置かれていた。
あくまでも推測の域を出ないが、大きさ・新しさからして、日中線を走ったものではないと思う。
廃線跡はなおも直進!
するはずだが、ダートの道は何故か右へ屈曲するのであった。
そのわけは、後述。
【8】県道に吸収される
現在の場所はここ
福島県道333号日中喜多方線から分岐した、福島県道335号大平喜多方線に敷地を占領されている。
この写真は、先程の屈曲部分を、熱塩加納方から喜多方方を見たものである。
県道は左方向にカーブして行く。
これ以降、日中線廃線跡の探索は県道が鍵になる。
(これは、管理人自らへの戒めを込めて)
つまり、その大部分を未だ目の当たりにしていないが、廃線跡は道路に転用されているということである。
県道にかかる「願成寺橋」に立って、北側を望む。
...別に、飛び降りようとしているわけではないので、念のため。
この辺に「押切川橋」という鉄橋があったそうだが、勿論痕跡はない。
もしかしてこの「願成寺橋」に取って代わられているのだろうか?
【9】リベンジ!
季節は夏を過ぎ、秋を迎えた。
そんなある日、日中線廃線跡に再び挑むことにした管理人。
− 秋ということで、この日訪れた部分の背景を黄色にしている −
願成寺橋から、熱塩駅を目指す。
因みに今日の探索の足は、自転車ではなく、4輪の我が愛車。
願成寺橋(現役時の橋の名は押切川橋)を渡り、上三宮駅跡へ向かう。
ススキの穂が涼風に揺れる。
上三宮駅跡と思われる付近。
※T字路の付近が、駅の跡と言われる。
事前調査のときも、そして帰宅してから調べ直している間も不思議に思ったのが、日中線に関するwebサイトについてである。
「日中線」で検索すれば、現役当時の写真やエピソードを綴ったサイトをいくつか見ることができるが、その廃線跡を辿ったものは意外と少ない。
それは、廃線になった様々な鉄道を調べた経験上、初めてのことであった。
そんな歴史の跡が、すぐ傍に存在している、これは管理人にとって飛びつかずにはいられないのだった。
県道(大平喜多方線)は緩やかに右へカーブするが、それよりもさらにゆるくカーブしていく廃線跡。
約2km近くに渡って、その痕跡は県道に飲み込まれてしまったが、ここで再び自立の道を歩むことになる。
さはらじゅうろうよしつら ごろうざえもんもりとき
日中線がこの地を通るよりも遥か昔の13世紀、関東武士・佐原十郎義連の孫である五郎左衛門盛時が築城した「青山城」の跡。
田んぼの中に民家が点在する中にあって、比高約10mの城跡であるが、これは「西城」と言われる。
もともとは「東城」も存在したと言われるが現存しない。
ほかで
また城の周囲には外手と呼ばれる土塁が築かれていたが、西側部分が奇しくも日中線建設の際に取り壊されたと言われている。
青山城跡の前で県道を西に折れ、携帯電話の電波塔に向かって進むと、程なくして怪しい草むらの「道」が出現した。
←喜多方方。
熱塩方→。
少し熱塩寄り。
←喜多方方。
廃線跡は草むらで、その両脇が車両が通る畦道で側道のようになっている。
熱塩方→。こちら側は廃線跡が畦道になっている。
さらに熱塩方へ進むと、なんと立派な2車線の舗装道路にレベルアップする。
喜多方市と合併する前の熱塩加納村の村道に転用されていた。
なおも進むと、なんと!
かつて日中線から客を奪ったと言われる会津バスが、なんと廃線跡転用の道路を走っていた!
その会津バスも、近年は各地で乗客の減少に悩まされ、かなり思い切った路線統廃合を進めている。
若い世代は自ら車を操り、暮らしの利便性を高めようとするが、それが困難な高齢者などはいったいどうするのか?!
それがためにバスの本数が減らされ、運賃は値上がりし、ますます乗客が減るという悪循環が繰り返される。
...などとぼやいているうちに、会津加納駅跡に着いた。
ここも、「ここが駅の跡だ」と言われないと全然分からない程になっている。
ロードマップでは、廃線跡の東側を通る細い道が県道に指定されているが、実際来てみるとこちら廃線跡の転用道路が県道になっているようである。
駅跡を出、直進する県道と分かれて一路熱塩へ。
←喜多方方。
熱塩方→。
うーんこの緩やか〜なカーブ、なんとも言えません。
さらに熱塩方。
ここで福島県道383号熱塩加納山都西会津線(長い名前!)に乗っ取られる。
先程とはまた別の県道である。
カーブする県道に屈曲で交差点にさせられた廃線跡転用道路、その三角形状の残地が見て取れる。
周囲の田んぼに、コンバインが忙しく動き回っている。
この辺りから徐々に上り勾配になる。
前方に怪しげな青看が!
拡大画像がないのが心残りだが、解説すると、立体交差形状の交差点の青看であるが左右の行き先が目隠しされている。
実は国道121号大峠道路のアプローチ道路なのであるが、その大峠道路が福島2工区と言われるこの近辺(右側:ここから喜多方寄り)で未開通であるがための暫定表示なのである。
※左側:米沢寄りの開通済み区間も僅か2km足らずで終わり、トンネルが連続する峠部分とは未だつながっていない。
そんな、まさに継ぎ接ぎの新道路の下を、廃線跡転用の県道が潜っていく。
橋脚の周りの土盛り部は草が生えてなく、未だ施工したてである様子が、走行中の車窓からも垣間見える。
部分開通のせいで通る車も疎らなこの区間、集落の中を縫って走る県道333号からシフトするまであと何年かかるのだろうか?
「大峠道路・福島2工区の事業主体である福島県からは『さほど緊急に整備する必要性がない』とされている」と言われるが、小学校があり、さほど広くもないクネクネとした道を、唸りをあげて走る大型ダンプに貸し切りバスに乗用車も入り乱れての車列、その光景を目の当たりにするに、それは果たして本当だろうかと疑念を抱かずにはいられない。
またしても県道との別れ!
県道熱塩加納山都西会津線は、あと数百メートルで県道333号日中喜多方線に交差するのであるが、それを待たず、左にカーブしていく。
県道から分かれた後の小道。おそらく廃線跡。
正面の熱塩小学校は、当時からこの場所にあったのだろうか?
熱塩寄り、喜多方方を振り返って撮影。
この近辺は家並みが建て込んでいて、路地は細かく折れ曲がり、廃線跡とは思い難い。
どのお家も最近建てたわけではないようだが、いったいどうなってるのだろうか?
お散歩中のにゃんこ達に訊いてみたが、教えてはもらえなかった。
その4に続く・・・予定
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